私の人生を通じた価値観で「次の世代はもっと豊かに」という思いが強くある。この思いはけっこう長く続いているので、死ぬまでそう思っているんだと思う。
「次の世代」というのはシンプルに言えば私の子どものことで、私の子どもが大きくなったら、経済的にも精神的にも私よりも豊かになっていて欲しいという思いが強くある。
子どもは親よりも豊かになる。
「豊かに」っていうけど具体的になんなのよ、問われると回答に困るのだが、とにかく私の次の世代は私よりも豊かになって欲しいと思う。
私は30歳になり、私の年収は父の年収を超えた。
私は経済的には父より豊かになることを果たしたのだ。
親よりも豊かに
私の父はすごい。自身の経済力を超える力を持つ息子を育てることができたのだ。
父の年収を超えたからといって父の年収が低いとバカにすることなどない。
私が父の年収を超えることは、世代を超えるにつれて豊かになるために必要なことなのだ。
しかしながら、私の仕事はキツい。
30歳で父の年収を超える仕事は肉体的にも精神的にもキツい。今はなんとかうまいことやっているが、いつまで持つのかわからない状態である。
豊かに生きるために大事なのことは、稼ぎ続ける力であって、大金を短期間で稼ぐことではない。
きつい仕事で体を壊して、長く働けなくなってしまっては、元も子もない。
息子はそんな状態ではあるのだが、まあなんとかうまいことやっていこうと思う。
そして、私のこんなにもキツい労働環境を、次の世代にそのまま引き渡すことはよくないと思っている。しかしながら、私がこのキツい労働環境を変えるためにできることは豆のように小さい。
できることといえば有給の消化ぐらいだ(驚くことに有給を取らない社員が多いのである)。
そういう思いがあり私は長時間労働を憎み、有給の消化に人生を賭けている。
有給は一般的には取得日から2年で消滅する。当社の有給も2年で消滅する。使い切れなかった有給は消滅するのだ。
万が一有給を消化できなかったら会社を辞めることを心に決めている(実際そうなったらビビッて辞めないとは思うが)。そういう気持ちで有給を消化しているのだ。
有給に親を殺された
以前、みんな有給をもっと取ろうぜ!的な記事をこのブログに書いたら、「こんなに有給消化に執着して、有給に親でも殺されたのか」というナイスジョークなコメントをいただいた。
「有給に親を殺された」というのは、なんとも私に調和するような指摘だった。
私は「労働による収入」には親を超えたが「労働環境・労働中の精神状態」はまったく親を超えられていなかった。
私の父は「てきとうに仕事をしててきとうに給料がもらえる仕事が一番いい」とおっしゃっていた。実際、てきとうに仕事をしていたのだろう。
「てきとうに仕事をしていた」というのは、私の過重労働によって精神がすり減らされている「労働環境・労働中の精神状態」とは比べ物にならないぐらい豊かなものだったと思われる(たぶんね)。
私は次世代の豊かさを目指す前に、自分自身の豊かさを追求する必要もある。それを達成する一つの手段が有給の消化である。
私が有給を消化することで、私は親よりも豊かになれることを信じている。
有給に親を殺されてはいないが、私が有給を使わなければ、私という次世代が豊かになれないのだ。
おわり