人格を否定するヤジ
「早く結婚した方がいいんじゃないか」とか言っちゃだめだ。女性議員が言っているように、それは「人格を否定するもの」だから。言っちゃだめっていうか、私のはそのような侮辱を対面の相手に口にすることができない。社会本能的に言えない。古い時代で結婚して子供つくるのが当たり前で普通すぎた時代は悪意なく言えちゃてたかもしれないけど、今の時代言えないでしょ。言えちゃう人はリプロダクティブ・ヘルス/ライツって言葉も知らないのだろう。
リプロダクティブ・ヘルスは、人間の生殖システムおよびその機能と活動過程のすべての側面において、単に疾病、障害がないというばかりでなく、身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態にあることを指します。したがって、リプロダクティブ・ヘルスは、人々が安全で満ち足りた性生活を営むことができ、生殖能力を持ち、子どもを持つか持たないか、いつ持つか、何人持つかを決める自由をもつことを意味します。
リプロダクティブ・ライツとは、国内法・国際法および国連での合意に基づいた人権の一つで、すべてのカップルと個人が、自分たちの子どもの数、出産間隔、出産する時期を自由にかつ責任をもって決定でき、そのための情報と手段を得ることができるという基本的権利、ならびに最高水準の性に関する健康およびリプロダクティブヘルスを享受する権利です。
リプロダクティブ・ヘルス/ライツとは - 家族の性と生を考えるプロジェクト
女も男も「いつ結婚するか」とか「いつ子供つくる(つくらない)」とかって自分で選択できる権利なんで、他人が口を挟むことではない、まして自分の価値観(結婚して子供つくるのが当たり前、なんでできないの?等)を強要するように口にすることは許しがたい侮辱だ。
「男女共同参画社会」とか「女性の社会進出」とか「男性の育児休暇」とかが朝のニュースで流れる時代に育ちました私も、目の前の人間に「結婚するな」とか「結婚しろ」「子供つくれ」とか「子供つくるな」なんて社会本能的に言えないんですよ、言いたいとも思ってないし。それこそ、あまり親しくない人からそんなこと言われたら、もうドン引きですよ。
多種多様な生き方が認められる時代
しかし問題がありまして、すべての男女が産まない選択をすると人間が絶滅してしまうんですよ。こいつは困った(当記事では便宜上「人間は絶滅するべきではない」を前提にしています)。絶滅は極端ですが、日本は子供増やしたい、少子化をなんとかしたい訳ですよ(当記事では便宜上「少子化を解消するべきだ」を前提にしています)。
しかし前述の通り「子供つくれ」って言えないのよ。確かにわかる、一人一人の話を聞いたら確かにわかる。多種多様な生き方、自己実現を認める現代、目の前の人間には口が裂けても「子供つくれ」なんてそんな失礼なことは言えない。例えば議会でそんなこと言ったら辞職に追い込まれてしまう。それくらいやばい。
「子供がいたら私の自由がなくなる」とか「仕事が楽しいから結婚は考えてない」とか「給料が少ないから結婚できない」とか「子供つくってなんのメリットがあるの?」とか「おれ一人が好きだし」とか「結婚とかめんどくさいだけ、なんで夫の面倒みなきゃいけないのよ」とか「結婚する意味あるの?法的な結婚に何の意味があるの?」とか「結婚はしないで議員になりたい」とか
うん、いいんだよ、全部いいんだよ、ありのままの自分みせるのよ*1。産まない選択をしている人たちに「子供産め」なんて言えない、もちろん自分自身にだって言えない。多種多様な生き方が認められる時代だ、一億総中流が目指した結婚出産マイホームの「幸福な家庭像」なんかに縛られる必要はない。あんなもんは社会に作り出された幸福の幻想だ。昭和が創りだした「幸福な家庭像」の偶像は平成が暴いてしまった。自らの幸福を自ら創りださねばいけない時代になってしまったのだ。幸福への定まったレールはない。
でも誰か(男女とも)が子供つくらないとどんどん少子化です。日本としては人口増やしたいんですよ、超高齢化社会待ったなしでして、国民(男女とも)には子供産んでほしい。ちょー産んで欲しい、産む選択をちょーして欲しい(または、ちょー子供欲しいと思っているが諸問題で子供つくれない男女が多数いることを想定し、その諸問題をちょー解決したい)。ちょー産んで欲しいから都議会で子育て支援策が足りないと問題になっている。
世代間倫理と出産育児
ところで、私は出産・育児も世代間倫理だと思っている。
世代間倫理 とは - コトバンク
未来世代(子孫)の利益を保護するために現世代が一方的に負うべき義務について論じる倫理の一分野。環境保護が主たる対象となる。
親世代に産み育てられたのだから、自分も子供を産み育てなければいけない(1組2人以上が望ましい)。世代間倫理って言葉を使っていいのか非常に悩ましいが、私はこの言葉がしっくり来る。親世代から受けた恩を、子世代に返すのだ。
家を建てるために親世代が植えた木を切るなら、自分のためではなく次世代のために木を植えなければいけない。次世代のために資源を枯渇させてはいけない。
産み育てられたら、自分のためではなく次世代のために自らも産み育てる。次世代のために命を枯渇させてはいけない。
行為には言えるけど、人格には言えない。
世代間倫理を達成するため、様々な理由で「産みたくても産めない男女」には、支援が必要だ。一方、「産まない選択をした男女」はどうだ。
「産まないを選択すること(行為)」に対しては、私は「子供を生み育てるべきだ」と言える(※)。親世代の無償の恩を子世代へと返すべきだから。
しかし「産まない選択をした彼・彼女という個人(人格)」に対しては、そんな侮辱は言えない。社会本能的に「個人の産まない選択を否定する」なんてとんでもない 。微塵も「あなたは産み育てるべきだ」なんて思わないし、思えない。
人格を肯定したら、自然とその行為も肯定されることになる。「産まない選択(行為)」の否定はできない。「子供を産み育てるべきだ」とか言っちゃう人ってリプロダクティブ・ヘルス/ライツって言葉も知らないのだろう(※参照)。
出産育児やら少子化の問題を考えると、毎回私はこの矛盾と葛藤に構われる。
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