人のブログ記事を添削してみた!の第4弾です!
この企画の発端については、第1弾をご参照ください。
第1弾
【添削例】人のブログを「読みやすい文章」に添削・修正したので公開します。
第2弾
【添削例】人のブログを「ビジネス文書風」に書き直したので公開します。
第3弾
【☆←ヒトデ】人のブログを「ヒトデ祭り風」に書き直したので公開します。
添削っていうか、俺が好き勝手に書き直してるだけになってるなァ?!
まぁいいかァ?!
あと、こういうことしてるとGoogleから重複コンテンツ扱いされるんじゃないかと気が気でないんですが、まあ元記事へのリンク貼ってるから大丈夫だよねァ?!!!
そういうわけで今回は頑張って添削しました。添削の途中で息切れして力尽きてしまったので、後半は赤文字・青文字が少ないです。私の添削は1,000字が限界な気がしています(今回のは1,200字程度)。
第4弾はどいつだァ?!
こいつだァ!!
はてな女子界の思念の青猫(シネンノアオネコ)ぉ!!!みもりんだぁ!!!
※親しみを込めてみもりんと呼んでいます。※三森をみもりんと呼ぶとかわいい。
「ピアニッシモの音が聞こえない。」だぁ?! オシャレなタイトルじゃねーか!!しかも、おれ、この記事好きだぞ!! 心に染みるものがある記事です。なんというめぐり合わせだぁ!!(※添削する記事は添削希望者選んでもらっています)
以前、赤ペン青ペンを入れまくった添削結果が読みにくいというご指摘をいただきまして(そりゃそうだ)、今回は文末に「添削結果(清書版)」として、添削後の清書を載せました。清書したのを自分で読んでみると、なんかいまいちな個所もあるんですよねえ・・・文章添削に終わりはないんだね!!
それでは添削結果をぞうど!! ぞうど?!ぱおーん!!
添削者コメント
- ネット・インターネット→「インターネット」で統一。
- 「~した。調」で統一。しようと思ったけど大変だったので断念した。
- 難しい漢字を使うのはやめよう。「揺蕩う」読めない。
- 前半で出てくるキーワードを後半で再度登場させると、読んでいる人は興奮する。いわゆる「フラグ回収」。
- 難解な表現になることが避けられないなら、書かない英断をしてよい。それが記事の主眼なら頑張って書くしかないけど。
コードを書くからバグが出るんですよ、コードを書かなければ絶対にバグらない(プログラマ脳)。 - しかしながら、個人のブログなんて好きな文体で好きなように書いてればいいんですよ。と思いながら私の好みで人のブログを添削してます。
添削結果
ネット(→インターネット)で強い言葉ばかり見ていると、弱い言葉が目に入らなくなるかもしれないと思うことがあって(表現が回りくどいので消した)〔「強い言葉」「弱い言葉」をもっと具体的な表現に改めたかったのだが、思いつかなかった〕。以前この記事書いたんですが、
ヘッドホンから、バンド曲のドラムが初めて聞こえた日。(→個人的には target="_blank"(※新しいタブで開く)を入れて欲しい)
その逆ですね。〔逆か?「強い音」のせいで「弱い音」に気がつかないという意味で同じでは?「気づけた」と「気づけない」で逆なのだろうけど、そこまで容易に想像できない〕スピーカーの爆音に煽られて、(→で(「スピーカー」に「煽る」は一般的には使わない))耳がいかれたら(→やられたら)どうしようと想像するん(→してしまうん)です。しかも無意識に(スピーカーの爆音に)慣れちゃって、(ドラムの音が)聞こえないことにも気づけなかったら怖いなと思う。
(私が)子供の頃(はインターネットがまだ普及しおらず)、情報発信はそれなりに敷居が高いもので、だから(→くて、)ネットにいるの(→インターネットで情報発信をしている人)は特別な才能(が)ある人たちだと思っていました。(だから、※)ホームページのコメント欄に(→にコメントを)書いて送信するだけでも1時間くらいドキドキしたし、好きなテキストを書く管理人さんが更新しなくなると本人に何かあったんじゃないかと心配した。
(※「だから」を追加。文が順接、逆説でつながっているときは、接続詞をちゃんと書いた方が書き手の意図が明確になる)
インターネットが広く普及してからは、特別な誰か(のテキスト)より(も)、(私と)同じような目線で世界を見てる、でも出会えない誰かのテキストを読むのが好きになりました。深刻な悩みを、さらりと日常に組み込んで話す人がいると(→日常のことのようにさらりと書いているテキストを読むと、)肩の力が抜ける気がした(→抜けました)。そしてそれ(→、私と同じ目線のテキストを)を簡単に読めて(、私も同じようにテキストを)書け(いて誰かに読んでもらえ)るの(→こと)が楽しいと思った。それに、同じものに対して、自分とは違う形で好きな誰かや(→「好きだということ」を表現しているテキストや)、似て見えても好きじゃない誰かの(→表現は似ていても「嫌いだということ」を伝えている)テキストを見つけると(、)その差異に人間的な温度を感じて嬉しくなったんです。〔この1文が非常に難解で、私の理解で書き直した。私の理解で著者の意図とあっていると思う…〕
嬉しくなるんですけれど、最近なんだかそういうテキストを見つけるのが難しいなと思ったりしてます。単に自分の揺蕩う〔読めない!〕インターネットの海が「そういう」ところ〔「そういうテキスト」が見つからない「そういう」ところ と言いたいのだと思うが「そういう」が混在してわかりにくい、具体的に書いたほうがよい。「同じ目線の誰かのテキストが見つかりにくい」ところ とかかな〕なのかもしれないですけれど。
SEOに最適化された温度のない言葉や炎上でアクセスと被リンクを集める(→炎上するために書かれたテキストや、SEOに最適化したアクセスと被リンクを集めるためのテキストは、温度のない)強い言葉を(使う。温度のない強い言葉を)、恨みがましい目で見る気持ちがある(→見ている)んですよ。アフィリエイトに対しては特に思ってなかったけれど、〔アドセンスが罪深いことが言いたいのでアフィリエイトには触れなくてよい〕アドセンス(→インターネットの広告)は(、普通の日記を収益化できるようにしたから)罪深いと思う。普通の日記まで強い言葉を使う必要性なんてなくてもよかったのに(、広告のために普通の日記が強い言葉を使うようになってしまった)。Googleの検索窓にキーワードを打ち込んでも探してる人(→、私と同じ目線の誰かのテキスト※)が引っかからない(→目に入らない※)。〔※前述していたキーワードを後半で再度持ってくると、ちゃんと読んでいる人は興奮する〕
〔ここから添削者息切れ〕
自分が望むインターネットの海は、宛先のないボトルメッセージが気まぐれに誰かの浜辺にたどり着いて、疎ましがられたり励ましたりささやかに影響を与えたりするものなんですけれど、今はむしろ、ポストに絨毯爆撃的に投げ込まれるチラシっぽさを感じる。しかもそこに人間の温度が読みとれないので不安になる。死や性までも強い言葉のデコレーションに使うのを見ると、その有用性は理解できても、慣れたら怖い気がするんですよね。次はもっと強い武器が必要になるわけですし。
ピアノの譜面でずっとフォルテッシモ〔簡単にでも意味を書いた方が読み手に優しい〕の曲を弾くの難しいじゃないですか。抑揚のない煩い〔ひらがなが優しい〕音になってしまいかねない。だから色んな音の強弱があった方が良い気がして、しかもそれがちゃんと聞こえる方が嬉しいなと。ピアニッシモの音も、とても弱くささやかだけれどちゃんと鳴っていて、それが拾える耳でいたいな、なんてことをたまに考えるんです。
添削結果(清書版)
インターネットで強い言葉ばかり見ていると、弱い言葉が目に入らなくなるかもしれない。
私が子供の頃はインターネットがまだ普及しておらず、情報発信は敷居が高くて、インターネットで情報発信をしている人は特別な才能がある人だと思っていました。だから、ホームページにコメントを書いて送信するだけでも1時間くらいドキドキしたし、好きなテキストを書く管理人さんが更新しなくなると本人に何かあったんじゃないかと心配した。
インターネットが広く普及してからは、特別な誰かのテキストよりも、私と同じ目線で世界を見てる誰かのテキストが好きになりました。深刻な悩みを日常のことのようにさらりと書いているテキストを読むと、肩の力が抜けました。そして、私と同じ目線のテキストを簡単に読めて、私も同じようにテキストを書いて誰かに読んでもらえることが楽しいと思った。それに、自分とは違う形で「好きだということ」を表現しているテキストや、表現は似ていても「嫌いだということ」を伝えているテキストを見つけると、その差異に人間的な温度を感じて嬉しくなったんです。
嬉しくなるんですけれど、最近なんだかそういうテキストを見つけるのが難しいなと思ったりしてます。単に自分のインターネットの海が「同じ目線の誰かのテキストが見つかりにくい」ところなのかもしれないですけれど。
炎上するために書かれたテキストや、SEOに最適化したアクセスと被リンクを集めるためのテキストは、温度のない強い言葉を使う。温度のない強い言葉を恨みがましい目で見ているんですよ。インターネットの広告は、普通の日記を収益化できるようにしたから罪深いと思う。普通の日記まで強い言葉を使う必要性なんてなくてもよかったのに、広告のために普通の日記が強い言葉を使うようになってしまった。Googleの検索窓にキーワードを打ち込んでも、私と同じ目線の誰かのテキストが目に入らない。
自分が望むインターネットの海は、宛先のないボトルメッセージが気まぐれに誰かの浜辺にたどり着いて、疎ましがられたり励ましたりささやかに影響を与えたりするものなんですけれど、今はむしろ、ポストに絨毯爆撃的に投げ込まれるチラシっぽさを感じる。しかもそこに人間の温度が読みとれないので不安になる。死や性までも強い言葉のデコレーションに使うのを見ると、その有用性は理解できても、慣れたら怖い気がするんですよね。次はもっと強い武器が必要になるわけですし。
ピアノの譜面でずっとフォルテッシモ(きわめて強く)の曲を弾くの難しいじゃないですか。抑揚のないうるさい音になってしまいかねない。だから色んな音の強弱があった方が良い気がして、しかもそれがちゃんと聞こえる方が嬉しいなと。ピアニッシモ(きわめて弱く)の音も、とても弱くささやかだけれどちゃんと鳴っていて、それが拾える耳でいたいな、なんてことをたまに考えるんです。