ブログあしみの

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娘のかわいさを全く測れなくなっているのだが、そんなことより誰かの欲目フィルターの発動条件を満たせばいいと思う。

父子の関係からくるフィルター

自分の娘が美人なのかどうかをちょくちょく考えてしまう。

直観的には美人の方がいいと即答なのだが、美人には美人なりの苦労があるだろうし普通が一番いいよね、人間大事なのは内面でしょ。などという 考えて自分の心地がよくなるきれいごと を考えたりもしているが、なんだかんだ言っても美人の方が世の中の恩恵を多く受けられる気がしている。

自分の娘は1才を超えて、顔の造形が乳児から幼児に変わっていっている。私から見た娘は控えめに見ても美しい、顔の造形が整っておりかわいい。

しかしながら、親である私から見た娘の美醜は世間の一般ではない。平たく言うと親バカフィルターによって私は、見目麗しい娘を永遠に見せられ続けることになっている。
恋は盲目、痘痕も靨、恋は思案の外、惚れたよく目なのである。

(痘痕も靨:あばたもえくぼ:愛する者にとっては相手の天然痘の痕の痘痕ですら、かわいい靨に見えるの意から)
(恋は試案の外:こいはしあんのほか:恋は常識では律しきれない)
(惚れた欲目:ほれたよくめ:惚れているために相手を実際以上によく見る心情)
(すべて広辞苑から)

娘への感情が「恋」かというとそうではない気がするのだが、似たようなものである。

重要な他者との関係性でフィルターの発動条件を満たす

「自分の娘が美人なのか」を考える際に、重要なことは世間一般の感覚であって、そこに親バカフィルターはいらない。しかしながら私のフィルターは外すことができないので、私はもうそれを考えることができないのだ。そのフィルターの存在を私は認識しているので、もっと客観的に娘の容姿を見ようと努力したこともあった、しかしながらいかんせん、もう1年も娘を共に過ごしてしまったので日に日に愛着を増すフィルターはもう外せないのであった。

そんなことを考えつつも、親が子供の容姿に執着しても大した意味がないということに気が付く。人間は生まれつきの自身の美醜で勝負するしかなく、子が持つ憧れやコンプレックスは親が解消するようなものではない、自分の美醜を自分で認め、なんとか折り合いを付けて生きていくしかないのだ。私だってそうして生きてきた。

自身の容姿に折り合いを付けて生きてきた私はあることに気が付いた。人間関係において、容姿は客観的に判断されるものではなく、主観的に判断されることなのである。例えば、愛着を感じる相手には親バカに似た例のフィルターが発動する。

私が持つフィルターは、父子という関係が元になり既に発動させられていた。もしも私の娘がたいして美しくなくても、重要な他者のフィルターの発動条件を満たせばいいのだ。

「外見をきっかけとした好意」が世の男女関係には多くあると思うが「内面や関係性をきっかけとした好意」の方が愛情の本質のような気がしている。

しかしながら、客観的に見ても私の娘はとびきりかわいいから将来モテモテだと思う。