ブログあしみの

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「尊敬する人物は両親です」と「大きくなったらパパと結婚する」の類似性

 私は自分の親を尊敬していません。
 一方で、自分の親を尊敬している人って結構いるじゃないですか。私は親を尊敬できる人が羨ましいんですよ。

 私が自分の親を尊敬していないっていっても、軽蔑したり侮辱しているわけでないです。両親にはこれまで立派に育てて頂いておりますので、決して軽蔑しているわけではないのです。
 なんですけど(ここでは具体的な理由は書きませんが)尊敬はしていません。両親を尊敬している人は、「尊敬できない理由がない親」がいて、その上「親を尊敬している」っぽいので羨ましいですね。自分の両親なんですから、そりゃ尊敬にできる人物の方がいいですよねえ。

 尊敬する人物が親でいいのか?

 ところで話は変わりますが、そもそも「尊敬する人物は両親」って視野が狭いと思うんですよ。自分が両親に育てられているので、そもそも前提として尊敬せざるを得ない環境にあるんですよ。子供を産み育てることって立派じゃないですか。「両親を尊敬しろ」なんて標語もあったりしますし。
 両親を尊敬するべきだ・両親は偉いという世の中のどんよりした空気を吸ってしまって、で、たまたま近くに目立ったマイナス点のない両親がいて尊敬しているんじゃないかと私は勘ぐっているんですよ。

 そもそも、「自分を育ててくれたから」という理由で尊敬しているなら、あなたが尊敬すべき人物は全国のお父さんお母さんなんですよ。
 自分が育てられたという私情を挟まずに客観的に自分の両親を見た場合、本当に尊敬できますか? 両親はその辺にいるおっさんと同じなんじゃないでしょうか。その変にいるおっさんだって子供を立派に育てているんですよ。それならその辺にいるおっさんも尊敬すべきでしょうが。
 とは言っても、「尊敬」に私情を挟んではいけないことなんてないので、誰を尊敬しようが私情で尊敬しようが客観的に尊敬しようが、自由でいいんですけどね。

「パパと結婚する」という視野の狭さ

 「尊敬する人物は両親です」って、子供の「大きくなったらパパと結婚する」っていうのと似たような感覚を得るんですよ。知っている大人の男がパパしか知らないから「パパと結婚する」なんて言ってしまう。成長するに連れ視野が広がって、多くの人と関わるにつれてパパは結婚対象から外れるんですよ。

 自分が成長するに連れて、両親って尊敬の対象から外れていく存在だと思うんですよね。社会に出て多くの人と関わるに連れて、自分から見た両親の特別性、関係性は下がるし。

親の願い

 そんなことを言っている私も気がつけば子供ができて「親」の立場になってしまいました。我が子には「親(両親を尊敬していないとか言っちゃう私)」なんか尊敬しないで、いろんな人とか変わって本当に尊敬できる人といい関係を築いて欲しいですね。