発語した「AAAはBBB」を私が自分の耳で聞いて、「これは間違ったこと言っているな」と思って、「CCCだからDDD」って発語して訂正している。「CCCだからDDD」は、自分の耳に入ってきた内容を自分で咀嚼した結果の訂正です。自分で考えて「CCCだからDDD」を発語している。
発語内容を考えているのはだれか?
「AAAはBBB」っていう誤った内容も、私が発語している。でも、それが誤りだということに発語するまで気がつかない。
もっというと、発語して自分の耳からそれを聞かないと、それが誤りだとわからないし気が付けない。なぜ「AAAはBBB」が誤りであることを、発語前の段階で気がつかないのか。なぜ耳から聞かないと、その内容が誤りだと気がつかないのか。
「CCCだからDDD」は私が考えた結果の発語だ。
では「AAAはBBB」は、だれの考えなのか??? 私の考えなのか???
しかし私はそんなこと(「AAAはBBB」)は考えていない。それを自分の耳から聞けば「AAAはBBB」が誤りであることは瞬間的・直感的にわかるからだ。間髪入れずに否定ができる。
ここで「間髪入れずに否定できる」っていうのが新たな問題となる。「間髪入れずに否定する」=「思考を経由することなく発語している」ということができるのではないか。そう「CCCだからDDD」も私が思考して発語した内容ではない。脊髄反射的に発語しているのだ。
冒頭の会話には続きがある。
私 「AAAはBBBじゃん!!あっ、でも違うか、CCCだからDDDなのか」
相手「なんでCCCだからDDDだと言えるの?」
私 「それはEEEだからだよ!」
皆さんお気づきだろうか?「EEEだからだよ」も、もちろん「思考を経由することなく発語している」。
何も考えなくても会話ができる
会話中の私の発語は、私の思考を経由していないすべての会話がそうではない。
(例えば「ちょっとまって、考えるから」とか「(沈黙2秒)」等の場合は会話中に思考が入るだろう。)
私は、これまでの勉強・思考・コミュニケーション等の積み重ねの結果、なにも考えること無く会話することができるようになっていたのだ。
冒頭の「AAAはBBB」という発語の誤りは、上記の訓練が足りなかったのだろう。別の機会に、AAA・BBB・CCCD・DDD・EEE」の関係性を自分でしっかり「思考」し「咀嚼」し「自分に落とし込む」ことをすれば、私に備わっている自動発語機能は「AAAはBBB」なんていう誤った情報を発語しなくなるだろう。
自分の自動発語機能が衰えると人と会話できなくなるだろうから、日々「思考」して会話に困らないようにしないといけない。
この考えの一方で、自分が「自分の発語」に疎外されていることを強く感じる。
自動発語機能によって行われる会話は自分の思考を経由していない。この発語はだれの発語なのか?私なのか?でも私はなにも考えてないよ。
会話が勉強・思考・コミュニケーション等の積み重ねの結果だと考えれば、そこまで疎外されないか。自動発語機能を育て上げたのは、他でもないこの私だ。人間はすばらしい。ライフイズビューティフル。