あしみの 日記

あした友達に話したいことを書いています

モノを食べるときの喜びの最大点はどこか?飲み込むときではないか。

私がここ数年、ゆっくりと時間をかけて少しずつ考えてきたがある。それに今日、結論を出そうと思う。

考えてきたこというのは「モノを食べているときに、1番喜びを感じるタイミングはふどこか?」ということだ。

「モノを食べる」場合、一般的には以下の過程を踏むことになる。

  1. 見る
  2. 口に運ぶ
  3. 口に入れる
  4. 噛む
  5. 飲み込む

どの過程で1番喜びを感じるのか。私は数年間、自身の体を検体にして検証してきた。1つ1つの検証結果をここに述べていく。

 

1.見る

食べ物を見たとき、嬉しく思うし興奮する。「私はこれからこれを食べるのだ」という期待感に包まれる。その期待感は満足感と言ってもいいかもしれない、見ただけで満足するということも世の中にはあるのだ。その場合、「食べられる」と期待するだけで、ある種の幸福を得ているのかもしれない。
しかし、その喜びは「モノを食べる」の本質からくる喜びではない。当たり前である、まだ食べてないのだから。

 

2.口に運ぶ

食べ物を箸でつまみ口に運ぶとき、確かに嬉しく思うし興奮する。「私はこれからこれを食べるのだ」という期待感に包まれる。そうは言ったものの、食べ物を口に運ぶ行為は一瞬だ。その一瞬の行為に大きな喜びがあるのかと考えると、ない。
試しに、食べ物を口に運ぶという行為をじっくりゆっくりと堪能してみたときがあった。実際問題、私は数年この問題を考えてきているのだ、これくらいの検証はとっくにしている。
結論からいうと、イライラするだけだった(箸を持つ腕はプルプルした)。食べ物は速やかに口に入れたいのだ。当たり前である。

 

3.口に入れる

食べ物を口に入れる瞬間、それは至福の瞬間である。口に入れた瞬間に食べ物の匂いが口、鼻に広がる。我が口腔に食べ物を入れたという達成、安堵、幸福。口に入れる瞬間というのが、食べ物を食べているときの最高の瞬間なのかもしれない。
しかし結論を急いではいけない。一度保留にして、次の行為を検証する。

 

4.噛む

食べ物を噛むこと、咀嚼することこそ、食べる行為における最高の喜びかもしれない。噛む度に広がる味わい、匂い、幸福。噛むことは生きること、食べ物を食べると同時に生を噛みしめているのだ。食材の食感、あふれる肉汁、噛む度に甘くなる白米、混ざり合う旨味、カレーは飲み物。噛むことは脳への刺激にもなる。脳への刺激というのは幸福の源そのものかもしれない。

 

5.飲み込む

結論をいうと、私が考えている「モノを食べるときの喜びの最大点」は「飲み込む」だ。 食べるという行為の終着点である飲み込むという行為に、食べる喜びの最大点があるのだ。ここが最大地点でなくてどこにそれがあるというのか。これまでのすべての行為(見る、運ぶ、入れる、噛む)はこのためにあるのだ。すべては飲み込むという行為の奴隷にすぎない。

「ごっくん」と飲み込む行為は至福の瞬間である。口腔と喉で感じる味わい、それは胃から全身に伝わり、全身を安堵させる。全身を幸福が巡る。幸福をもたらす何かが脳から出ているに違いない。

確かに、私はこの結論に迷った。食べるには「噛む」がある。噛んでいるときの方が、喜びが大きいのではないか?「噛む時間」は「飲み込む時間」に比べて圧倒的に大きい、もちろん、「見る、運ぶ、入れる」よりも圧倒的に長い。そのぶん、喜びを感じられる時間が長い。つまり、この勝負で「噛む」は最初から圧倒的に有利なのだ。

しかしながら、その圧倒的な持ち時間を一瞬で覆す程に「飲み込む」という行為は爆発的に幸福なのである。食物が自信の喉を通る瞬間、自身の生を感じずにはいられない。全身で感じるしか無いのだ。なんとも言いがたい至福の行為、それが「飲み込む」。

さらにいうと、「噛む」という行為は「飲む」ための序章にすぎない。つまり「飲む」ために「噛む」のだ。この事実がある以上、「飲む」が「噛む」に比べて決して届かない地点にいることは言うまでもない。

以上、「モノを食べるときの喜びの最大点」「飲み込む」ときだ。というお話でした。

 

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