5月14日は母の日。
私は母の日にプレゼントを贈ったことがない。
家族間でプレゼントを渡す習慣がない
私が育った家庭はプレゼントの運用方式が一般的ではなかった。
私の両親は「誕生日」のような記念日や「母の日」のような行事で、家族間でプレゼントを渡すという文化がなかったのだ。
子供だった私が「記念日にプレゼント」を貰ったことがないのはもちろん、私の両親が互いにプレゼントを贈っている場面を見たこともない。もちろんサンタクロースもいない、クリスマスプレゼントはないのだ。
しかし、子供にも物欲はある。
私は両親に「これがほしい、あれがほしい」と幾度と無く要求した。しかし、両親から「誕生日に買ってあげる」「クリスマスまでもう少し待とう」等の言葉は聞いたことがなかった。
私の「これがほしい、あれがほしい」という要求は、ほとんどの場合却下された。しかし、両親は一定期間ごと(年に2、3回だろうか)に私の要求をのみ、記念日に関係なく、私が欲しいものを私に買ってくれた。
「記念日のプレゼント」を貰ったことがない子供でも、世間の子どもたちが「誕生日」や「クリスマス」で両親に幅を利かせ、何かを買ってもらって物欲を満たしていることは知っている。
私は定期的に物欲が満たされていたため、普通の子どものように「記念日」だからといって両親に強くプレゼントを要求することはなかった。
定期的に欲しいものを買ってくれるので、記念日にものを買ってもらわなくてもよかった。しかし、そのようなプレゼントの運用方式は悲劇を生む。
「記念日」にプレゼントを貰ったことがない子供からは、「母の日」にカーネーションを贈るという発想は生まれないのだ。私は母の日のプレゼントを贈ったことがない。
しかしながら、なぜ両親は私に「誕生日プレゼント」「クリスマスプレゼント」を与えなかったのだろうか?
そもそも、誕生日にプレゼントを贈る合理的な理由など何もない。プレゼントは、贈るべき理由ができたときに贈るべきだ。
プレゼントを贈るべき合理的な理由
- 家庭の経済に余裕ができた。
- 前にゲームを与えてから半年経った(子供の物欲は定期的に多少なり満たす必要がある)
- テストで100点取った(努力・成果への報酬)
- プレゼントを贈りたくて贈りたくてどうしようもない(一見合理的でないが、「感情」を尊重することは極めて合理的である)
「生まれた日だから祝う(誕生日プレゼント)」という気持ちはわからなくもない。この場合「プレゼントを贈りたい」という感情は「誕生日であること」が発端だ。それの感情は「節分だから恵方巻き食べる」と根本は同じだ。
「節分=恵方巻き」には、感情も根拠も合理性もない。同様に「誕生日=プレゼント」の結びつきに合理性はない。
しかし不思議なもので、「誕生日」は確かに「プレゼントを贈りたい」という気持ちを生む。
母の日にこだわる必要はない
母に日々感謝していても「母の日」という理由でプレゼントを贈る必要はない、プレゼントはいつだって贈ることができる。しかし、もし母の日がなければ、定期的に母にプレゼントを贈る人は多くないだろう。
母の日の価値は大きい、母への感謝を表現できる機会であり、プレゼントを贈る機会を与えてくれる。
私がもし子供を持つ母親であれば、貯めたお小遣いで買ったカーネーションの一本でも贈ってほしいのだろう。
感謝のトリガーが、合理性がなく機械的に訪れる「母の日」であったとしても、そんなことどうだっていいのだ。プレゼントは嬉しい。