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繰り返すモラトリアムの闇の中で希望を持って生きる

あるブログ記事を読んで思ったことを書きます。読んだブログ記事はこちら→

30代半ばの男がなぜ結婚したがらないのかが全く持って理解不能だったのだが、父親から貰ったメールで腑に落ちた。まず男は子供が欲しいから結婚するという脳がない。(略)30代独身男というのは、モラトリアムを出来るだけ長く楽しみたい人種なのだと理解できた。
30代半ばの男がなぜ結婚したがらないのかが全く持って理解不能だったのだが..

モラトリアムって自分にとっては、専ら高校・大学時代に限るもんだと思ってた。学生は社会に出るまでの猶予期間を与えられているのです。

無罪モラトリアム

 

でも、結婚・出産前でもモラトリアムとも言えるのか・・・、私は出産を猶予した(実際に産むのはパートナーだが)。私はまだモラトリアムの中にいることになる。こいつはたまげた。私は自身について、就職することで社会的責任を果たしていると考えていた(就職がモラトリアムの終焉)からだ。

就職がモラトリアムの終焉っていう考え方って「就職が社会的責任である」って自分で思っちゃってることが前提にある。引用元の彼女は、社会的責任を「結婚・出産(当然、子育ても入るだろう)」と考えているんだよなー。

 

モラトリアムって言葉自体が「果たすべき社会的責任」を 内包してるからな、その言葉を使った時点で、自己への「果たすべき社会的責任」の解を求められる。その解はほとんどの場合自明だ、物心ついたときにには各々の解があるだろう。私は「就職」だったし、引用の彼女は「結婚・出産」だっただけで。

引用元の件はマッチングの問題で、自分の考える「社会的責任」が「結婚・出産」だったら、同等のモラトリアムを過ごしている相手を見つければいい。お互いに猶予期間を終え、社会的な責務を行う満足した状態で日々を過ごすことができる。

しかし、モラトリアムって言葉はしんどいねー、自己への社会的責任の達成を強いてくる。自分が自分に課した責任を達成できない人だっていっぱいいるんだから。考えによっちゃあ生まれること自体が社会的責任だっていい。そうすれば、生まれた瞬間から社会的責任を果たした存在となって自由に生きられる。それは話が飛躍しすぎか。

そんな訳で、各々の「社会的責任」に対するモラトリアムがある。この状況を鑑みると、私のモラトリアムは永遠に終わらないことを感じた。最後の「社会的責任」は「死」だろうしな。就職した私もモラトリアムで、子供作っても、また、ね、なんかあるんでしょ、隠しちゃって、ほら、社会的責任。モラトリアムになるわけでしょ。またなんか出てくるでしょ、そうであるならばモラトリアムを繰り返して、最後の社会的責任である死に向かって一直線だ!希望を持って生きよう!モラトリアムを食いつぶせ!

 

 モラトリアムの解釈がずれてるきがした。モラトリアムって言葉の意味は難しい。さらに「モラトリアム」がゲシュタルト崩壊してきたのでここで筆を置く事にする。

 

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