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妻を「ママー!!」と呼ぶと赤い実ハジケル

子供の頃から母を「ママ」とか「お母さん」とか呼ばなかった。母の名前で母を呼んでいたのだ。
母を「役割称」で呼ばず「名前(人格)」で呼んでいたとこになる(ここでは「役割称」を「役割を示す言葉で人を呼ぶこと」とします)。

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子供のころの私が自分の母を「ママ」とか「お母さん」と呼ばなかった理由はわからない(たぶん、たまたまだと思う)。
しかし、大学に入学し人文科学を学ぶことで、私は母を名前で呼ぶ行為に根拠を持った。人は「役割」ではなく「名前」、すなわち「人格」を用いて呼ぶべきだ。母を「お母さん」と読んだら「お母さん」の役割を母に押し付けることになってしまう。

私にとって実際の母親なのだから、母親の役割を押し付けてもいいのかもしれない。しかし、私にとって「ママ」だったり「お母さん」という呼称は、「ママの仕事」「お母さんの仕事」を母に押し付けてしまう気持ちになってしまう。「ママの仕事」を、息子である私がやったっていいのだ。私の母は、私との関係でやるべきことをやればいいだけで、世間一般がいう「ママの仕事」を無理してやる必要はない。

役割を投影する

しかしながら「役割称で人を呼ぶこと」を利用すると、面白いことができる。人を「通常はそうではない役割称」で呼ぶことで、一時的にその「通常はそうではない役割」を呼ぶ人に投影できる。

たとえば、自身の妻を「ママー!!」と呼んでみる(ママを求める気持ちを強く持って=いわゆる「バブみ」である)。生みの親としての「ママ」だ。私は何とも言えない甘酸っぱい気持ちになる。細胞が若返るのを感じる。この気持ちは何だろうか。とても甘い気持ちだ。
パートナーを通常とは異なる役割称で呼ぶことで、自分のパートナーの役割が急変することが刺激的なのだろうか。

例えば、妻を「パパ」と呼ぶことでも、この気持ちは生まれる。パートナーを「ママ」と呼ぶときの気持ちとはまた異なるが(一般的に「ママ」と「パパ」の社会的役割は大きく異なる)、この違和感、関係性の変容が甘美であることは共通している。

 

こんなことをしても、擬似的で一時的で現実感はないのだが、家族間の役割が入り乱れる感覚は楽しい、エキセントリックでクレイジーな感覚を得ることができる。 赤い実がはじけるとはこのような感覚をいうのだろうか。

お互いに「パパ」「ママ」なんて呼び合ってる夫婦は、たまには呼称を逆にすると非常に甘美だろう。現代、私達は「パパの役割」にも「ママの役割」にも縛られることなく生きることができるんだから。

自身に強く根付いているジェンダー感の破壊は、エクスタシーそのものである。妻を「ママー!!」と呼ぶことは、その一助になる。妻を「ママ」と呼ぶことが、私と妻の関係に於いて訳がわからない関係性であることは間違いないのだが。

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